3.妙な夢体験

アルザルという言葉で、8歳の時の夢を突然思い出しました。

その夢の世界がアルザルに関係あるということではありません。

ある日の夕刻、8歳の私は両親と3人で近所を歩いていました。

空はどんより薄暗く、美しい夕刻の風景ではありませんでした。

左から、父・母・私と横一列に並び、ただただ黙って無表情で歩いていました。

ふと、右を見ると、いつもの知った道なのに、見慣れない地下に続く石段がありました。

私は立ち止まり、まるで下から誘われるように、黙ったまま降りていきました。

石段は何段あったか定かではありませんが、子供の足で一段一段、ぴょんぴょん飛ばないと降りられません。

地下に着いたところで後ろを見上げると、両親はいませんでした。

何とも思わず、前に向き直すと、古い木造の大きな門が開いています。奥に見えるのは天井の高い、大きな寺院のようでした。

いつの間にか、老人(男性)が現れ、無言で奥に案内されました。

そして「しばらくここではたらきなさい。」と、テレパシーで伝わりました。

私は寺院の前を箒で掃く係で、淡々と日々が過ぎていきました。

その間いろいろあったようですが、そこはカットされて覚えていません。

ここまで音声は全く無く、モノトーンの世界でした。

夢の中で3年ほど経った頃、「終わり」をテレパシーで受信したと同時に、お寺にいる人々が現れ、優しく微笑んでいます。

そこでパッと景色がカラーに変わり、音声が聴こえ出しました。

私は、とても清々しい気分になり、一歩一歩踏みしめながら石段を上がりました。体が成長していたので楽に上がれました。

登り切る少し前で振り向き、右手を大きく振りながら、「ありがとう、さよならー!」と、地下の人々に向かって満面の笑顔で叫びました。

前を見ると、両親が笑顔で迎えに来ていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここで目が覚め、しばらくの間は夢と現実の間で彷徨っていました。

長い夢があまりにリアルだったからです。そして8歳児にとっては、達成感のような、未知の感情をいつまでも引きずっていました。

驚いたのは、数日後に全く同じ夢を観たことです。

しかも夢の中で、次の展開を分かりながら同じ行動をし、同じ年月を過ごします。

そして同じところで目が覚め、またしばらく、どちらが現実なのか分からない状態で過ごしました。

その頃から、実世界だと思っているこの世は、実は夢なのではないかと漠然と思うようになったのです。

2.探し物はなんですか?

かつて「自分探し」という言葉が流行りました。

数年前までの約20年間、自分探しに明け暮れていました。

荒野で彷徨う私の心と、ブームになったスピリチュアル(商法)がジャストミートしたわけです。

結果は、ますます迷宮で右往左往し、出口を見失ってしまいました。

こんな人、たくさんいるんでしょうね・・・いないか。

しかし、その翻弄された長い道を通らねば、バカボンブログに辿り着くことは無かったのです。

「これでいいのだ。」

意識の場所

チャネラー・霊能者という方にたくさんお会いしました。

なかには胡散臭い人もいましたが、異次元世界が観えたり聴こえたりしている人が、とても演技しているようには見えませんでした。

でも人によって、異次元情報がてんでバラバラなのは何故? 
ずっと疑問でした。

なるほど!と、妙に腑に落ちた答えがここにありました。

この頃ちまたでは、えすぱーが増えて、高次元存在や宇宙意識体とチャネルして、多種様々な情報が出て来ています。
徳の高い教えであったり、人類に覚醒を促すお導きであったり。
でもね、高次元やパラレルワールド含め他次元界は自分の脳にある階層のぶんだけあって、
自分の意識がその階層のどこにあるかで自分の今見たり感じたりする世界が変わるのではないだろうか?

https://koji-yamada.jp/2011/06/23/130355/

脳も次元も階層構造になっているなど、想像にも及びませんでした。

見える世界と見えない世界、つまりこの世とあの世の括りだけで考えていたのです。

自分が直接知得た情報ではないので、階層構造が真実なのかわからなかったけれど、とにかく「もっと深く知りたい!」と、胸で強く感じたことだけは真実です。

そして、異次元も太陽系も銀河系も、人類脳が何もかも造っているのではないかとの山田さんの推測は大変興味深いものでした。

私は漠然と、この世での一生を夢の中で過ごしているような気がしてならないのです。

1.『虚』

多分、人はいくつになっても、学ぶことが大好きです。

人間は、そのようにできていると思うのです。

「勉強嫌い」と思い込んでいるのは、外的な諸々の影響に過ぎません。

今は勉強が楽しくて仕方がありません。

頭を使う快感ってこんなに中毒性ありました?って思うほどです。

脳の使い方が違ったのですね。

「解ったーっ!」と「思い出したーっ!」いうふたつの感覚はとても似ていて、脳がジューシーになるのです。

年の功、塾の功。そして道祖神。

世の中は物や情報に溢れ、生活に不便さを感じることは、ほとんどなくなりました。

自分の頭で深く考えることを、長い間すっかり忘れていました。

いえ、誰しも半世紀以上も生きていると、呼吸さえままならぬほど辛いことも多々あると思います。

その都度大いに悩み考え、乗り越えてきたつもりでした。

が、その脳の使い方があまりにダサかったため、実は同じ様なトラブルや悩みを繰り返していただけなのです。

悩むことはアホらしいのです。

悩みなんて本当はないのです。

ぐるぐる思い悩むのは、出来事に対する独自の反応パターン。

それが病気を育くむ。

そのカラクリは、ずっと先の記事に出てくるはず。
ビンボーゴッドさんのしわざだったっけ…

自分で造り上げた観念が、悩みのおおもと。

深く考えることと悩むことは全く別次元でありました。

そして、ぐるぐる思い悩んでいる頃、毎朝通勤時に聴いて気持ちをリスタートしていた音楽があります。


「始めからはじめよう」/Passport  to Heaven  

記事の中で紹介されています。

かつての通勤路にある小さな道祖神社の前を、とぼとぼ歩くイヤホンの私がキュンと思い出されます。

音楽聴きながら、毎朝この石像の前で手を合わせていました。

再会

さて、第1回バカボンブログ。

の中のSF小説、「冷蔵庫の穴」。

2006年頃に山田夫妻で創作したというこの小説を、しょっぱなにドーンと掲載されたのは、波動学につながる大きな意味があるからなのでしょう。

しかし、私がそんなことを知る由もなく、以下の部分にひたすら共鳴していたのでした。

彼女もあたし同様、温もりを求めているはず。自分を愛せないまま、日々を過ごしているのだ。この一件が起きてからあたしは、『虚』という存在に親近感を抱き始めていた。それは、彼女の、そして自分の心に宿る『虚』が具現化されたものなのかもしれない。
 あたしは目を閉じ、全神経を集中させ、そっと彼女と鼓動を重ねる。あるだけのエネルギーで、間違いのない自分を守るように。

決めた。会う必要はない。会った所でそれは自分なのだ。

https://koji-yamada.jp/2011/06/21/123151/


それが、私と『虚』との再会でした。

はじめに

バカボンブログに出逢ったのは、2011年秋でした。
当時の知人が教えてくれました。

https://koji-yamada.jp/

そして、数年後には塾生としてのご縁までいただくことになりました。

もともと躁鬱の気はありましたが、2011年3月の東日本大震災以降、さらに重圧と無力感の狭間でもがき苦しんでいました。

自分の生き方にビンタを食らわされたのです。

体は石のように重く、心ここに在らずで、自分の存在が認められませんでした。
また、認めたくありませんでした。

そんな無機質な日々の中、何となく読み続けていたバカボンブログに、一筋の光を見つけていたのです。

ここに私がいる、と。

記事の内容はとても難しいけれど、理解できるようになりたいし、「理解しなければならない!」との強い思いがありました。

頭が追いつかないのに、胸が躍り、下腹が騒ぐのです。
頭で理解できないから胸やお腹で受け止めていた、そんな感覚でした。

そして、不思議なほどその文面や内容に惹かれ続けていました。

そして、塾生になる。

バカボンブログを読み始めてから5年後の2016年秋、記事で募集された山田塾(波動学講習会)にダメモトで応募してみました。

なぜか、このタイミングを逃してはいけないと思ったのです。

何に秀でているわけでもないけど塾に入れるのかなあと、一瞬不安がよぎりましたが、ちょっとやけっぱちでもありました。

10日後に合格メールが届き、急にドキドキしたのを覚えています。

スカイプでの予備授業を終えたものの、初めて参加した授業は正直ビビりました。
私の頭でついていけるのか?

でも、教室の空間がなんか自由で楽しい!
ひょっとしてイケるかも?と思いました。

早く先輩に追いつかなくては!と必死に過去記事を読んでは、考えに考えました。

いまだに解らないところだらけですけれども。

そして、入塾後数ヶ月経過。

徐々に仮の自我が薄れ、真の自我が見え隠れし始めました。

社会に揉まれる前の、もとの自分を思い出すような温かい感覚です。

その後、2年かけて心身の安定と不安定を繰り返しながら、その振幅は少しずつフラットになってきました。

今現在、体は軽く心ここに在り、です。

Just before waking up

2019年春、駆り立てられる思いが沸々と胸に湧き上がりました。

あちこち書き散らかしていた、授業や記事のノート、思いつきのメモ書きたち。

私の成長の過程でもあるこれらを整理して残したい!

そこで名案!(整理整頓下手のおかげ?)

バカボン記事の初回から順を追って自身に確認しながら、学びの記録・体の変化を綴っていこうと思いました。

ある意味、この世での終活か??

それでは、始めからはじめます。