40.それは後頭部の自覚から始まった。

前記事以来、ひと月以上に渡る内在の旅より帰還いたしました。
今生で数回目の、魂の記憶に残る旅だったと思います。
その余韻さえも空間に溶け収まりましたので、再開いたします。
コロナちゃんも早く落ち着いてくれないかなあ。

もともとインドア派なので、不要不急な外出は率先して自粛しておりましたが、世間全般がそうだと、どうも勝手が違う。
喧騒の中でのオタクの醍醐味が……

などと、呑気なことをいっている場合ではありませんね。
今後の世界変容は如何なる方向へ。。。

「道中の工夫」

リスタートということで、初心の初心に戻りまして・・・

山田塾入塾審査に合格後、オンラインでの予備授業があります。
いくつかの課題の一つに「道中の工夫」というものがありました。

目にしたもの耳にしたもの、感じたことなどを一切言語変換しない、つまり思考しないで道を歩くというもので、その感想をメールで送るよう指示されました。

最初は鳥を見れば「あ、鳥」とか、看板の字を読んだり、花を見れば「きれいだな」と、やはり言語変換していました。気がつけば雑念もよぎりまくりです。

しかし暫くすると、ボーッと歩けるようになりました。
さらにその瞑想状態から、それまでと違った感覚がでてきました。

私にしては珍しく、当時の感想文を保存していましたので、原文を掲載します。
(2016年9月25日18:15)

〈道中の工夫〉で感じたこと…
視覚が捉える光景が無声映画やアニメのように感じますが、あらゆる音が鮮やかに、存在感を持って響くように聞こえます。色彩もなぜか自然の緑がはっきりしています。無想状態では、いつも「自分」がいることに気がつきました。「自分」は後頭部にあるような感覚です。
ふと思考(言語変換)してしまうと「自分」が遠のき、今まで自分だと思っていた自分(仮)が両側頭から前頭葉に流れるように移動というか出現します。敢えて言語変換有無を繰り返すと、行ったり来たり出たり入ったりみたいな、ちょっと面白いと思いました。

以上。

この時、初めて脳の部位を自覚できたことに「おぉっ」と声が出ました。
前頭葉でのうわべ思考、後頭葉での研ぎ澄まされた自分の存在感。

現象のうわべに居る自分と、奥深い所の静寂に安堵する自分。

妄想から真心へ

以降、後頭葉での自分を習慣づける努力をしました。
と言っても、気がついた時に切り換えるだけですが。

時として生きにくい社会のルール、職種のルール、組織のルール。
想念が現象を創るとはいえ、心に矛盾する出来事や予期せぬ現象がひっきりなしにやってきます。

そんな時、脳が緊張していない状態を保ちつつ、直観に沿った思考を、優先できるようになってきたのです。失敗することも多々ありますが。いいんです、場数踏んでなんぼの世界ですから。

堂々巡りの考え疲れや妄想(心配ならぬ脳配=不安・恐怖)が少なくなると、当然ですが、落ち着いてきます。

冷静だけど温かな振動のようなものが自分の外側にも内側にも拡がり、全てを包み込めるような気がするのです。
やはり、現象を創る・変えるのは自分次第なのでした。

これは今の社会現象にも言えることで、

表層脳に不安・恐怖を埋め尽くしていると、いざという時に我欲や悲観が先立ち、本当に大切なものが観えなくなるのではないでしょうか。

厳しい環境の中でも、自分にできることを明るさを忘れずまごころ(真心)で行動する。それが乾いた未来に浸潤していく愛のような気がします。

大切なもの

「大切」を調べてみました。

「大いに切(せま)る」の意から重要であるさま。
「切」の原字は「七」。横線を縦線でたちきる意。

「大切(おおぎり)」とは、最終幕最後の場面のこと。
演目は主に、言葉遊び。
縁起をかついで大喜利とも書く。

はい、全然まとまってませんが、とりあえず再開です。